2026年元日、午前11:00~12:00、新年礼拝(オープン礼拝)を行いました。

お天気も良く、おだやかな朝でした。新年のあいさつを交わしたところで、新年礼拝が始まります。

新年にふさわしい賛美歌を歌い、聖書の言葉に耳を傾け、この一年が神に守られ、祝福されるように、心を合わせて祈りました。

聖書のお話では、創世記 1章1節~2章4節aから、
「『光あれ』と語る神」というタイトルでお話をしました。

「『光あれ』と語る神」

初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。
「光あれ」
こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。

(日本聖書協会「聖書 新共同訳」創世記1章1~5節)

年末に、『宗教のきほん 人間にとって神話とは何か』(平藤喜久子著、NHK出版、2025年)という本を読みました。

画家ゴーギャンの「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」を引いて、こうした普遍的な問いに対して、「神」という人間を超えた存在を主人公にして物語り、答えようとしたもの、それが「神話」である、という説明がありました。

なるほど、そういう意味では、聖書のこの「天地創造の物語」も神話であると言えるでしょう。人間の普遍的根源的な問いに対して、神を主人公にして物語り、答えようとしている点で、まさしく神話です。

「天地創造物語が神話である」と聞いて、キリスト教信者の中には、疑問を持つ方(なかには、お怒りになる方)もおられるかもしれません。

そういう方のためには、「天地創造物語は、神が『神話』という文学ジャンル(文学類型)を用いて、人間の普天的根源的問いに、啓示をもってお答えになったものである」と言い換えたら伝わるでしょうか。

この本では、さまざまな地域のさまざまな神話が紹介され、「神とは何か」「世界はどのようにして始まったのか」「人間とは何者なのか」について、それぞれの神話がどのように答えようとしているのかが書かれていました。わたしはそれらを大変興味深く読んだんですね。

そのうえで、聖書の天地創造物語がもつユニークさ(独自性)、わたしたちが信じている神様のユニークさを改めて思ったんですね。それは、他の神話に出てくる神々との「優劣」という意味ではありませんから、おまちがいのないように。

新年の始まりにわたしたちはこうして神の前に出ているわけですが、わたしたちが信じている神はいったいどのようなお方なのでしょうか。

1.「光あれ」と語る神

まず一つ目。わたしたちが信じる神は、「『光あれ』と語る神」です。

キリスト教が一神教であるということは、わたしたち信じる者にとってはもう当たり前として、その唯一の神は、「人格を持つ神」であり、「言葉を語る神」です。

だれに向かって語るのですか? 被造物世界に向かってです。そこには人間も含まれます(まだこの時点では、人間は創造されていませんが)。

言葉を語るということは、「意思を持つお方」であるということです。

神が語るその言葉に、神の思いが、神の意思が表れます。創造の始まりに、神は何と語られたのでしょうか?

「光あれ」です。

つまり、わたしたちが信じている神は、この世界とわたしたち人間に対して「明確な意思」を持つお方であり、それは、「この世界に、人々に、光あれ」ということなんですね。

そして、実際に、神の発した言葉によって光が生じました。

神の言葉には力があり、神はその力をもって、「ご自分の意思を実現なさるお方」なのです。

「光あれ」という言葉に、世界とわたしたち人間に対する、神の明確な意思(思い)があり、それを実現しようとする強い意志(決意)があり、それを実現する力がある。

このことを知っていただきたいというか、感じていただきたいというか、その言葉の響きを全身で味わっていただきたいと思うのです。

「光あれ」
神は、あなたにも語っておられます。

2.人間のために作られた世界

天地創造の物語は、神が6日間で世界を、そして最後に人間を創造し、7日目に安息なさったと記します。

「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(同2節)のですが、神は言葉をもって、光、大空、地、海、植物、太陽、月、そして生き物を創造されました。

この世界は、神の明確な意思によって、秩序立てて、創造されていったのですね。

この話をすると、「進化論では……」「創造論では……」と話してこられる方がいるのですが、私自身は、古代の人々(信仰者)がどういう「世界観」を持っていたかというお話をしていますので、そこはご理解いただきたいと思います。

最後に人間が造られますが、思いつきで造られたようには思えません。むしろ、神は最初から人間を住まわせるために、この世界を秩序立てて造られた、と読むのが自然です。

そして、「神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさ」いました(同2章3節)。「疲れたからひと休み(休息)」ではなく、「人と向き合うため」「共に安息するため、共に憩うため」です。

神と人とが共に安らぎ、憩うこと、それを「安息」と言うんですね。

これらの中にも、神の明確な意思が表れています。わたしたち人間に「光あれ」と語る神は、わたしたちが生きていくために必要な一つひとつを整えてくださる神です。

聖書はこう語ります。
「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。」(同31節)

わたしたち人間のために、この美しい世界が造られた…。そのような目で、そのような思いで自然界を見るときに、そこに新たな別の意味での「センス・オブ・ワンダー」が生まれるのではないでしょうか。

3.わたしたち人間を祝福する神

「この世界に、人々に、光あれ」と願う神は、祝福する神です。

神は人間を創造された後、このように言葉を語りました。

神は彼らを祝福して言われた。

「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」(同28節)

「従わせよ」「支配せよ」と語られていますが、これは「支配者、独裁者のごとく、思うがままにしてよい」という意味ではありません。

わかりやすく言うと、これは「治めよ」という意味で、「よろしく頼むよ」というような良い意味のニュアンスで使われているんですね。

「この世界と人間に光あれ」と願い、その思いをもって実際に世界と人間を創造した神は、「わたしが創造したこの世界で、あなたがた人間は、どのような世界を、どのような社会を築いていくのか。わたしはあなたがたと共にいて、あなたがたと共に歩んでいこう。あなたがたの前途に幸あれ!光あれ!」神は、そのように「祝福」を与えておられるのです。

ここに記されている神は、人間を下働きさせようとする神ではありません。人間がどのようなドタバタ喜劇、悲劇を見せてくれるか、ある種の意地の悪さをもってご覧になる神でもありません。また、「あとはご勝手に」とほったらかす神、見捨てる神でもありません。

人間に自由を与え、信頼し、ご自身のわざ(働き)に参画するように招き、共に歩もうとされる神なのです。

「光あれ」と願い、語り、創造したお方は、同じように「光あれ」と祝福し続ける神です。
主の御名はほむべきかな、アーメン。

「なのに、なぜ……」という人間世界の現実は、この後に続く物語があり、「神は、この現実をどうなさるおつもりなのか……」についても、またその後に続く物語があります。

「詩や歌や文学によって、生きることが支えられる、支えられた」ということがあるように、神話はきっと古代の人々の生を支えるものであったんですね。

そして、この神を信じるわたしたちは、「『光あれ』と語る神」を信じるわたしたちは、その神の言葉、聖書の言葉に支えられて生きるのです。

 というようなお話をしました。

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「主日礼拝」は、毎週日曜日 午前10:30~12:00に行われています。

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