2025年4月17日(木)夜、「受難週祈り会」をしました。
受難週とは、主イエス・キリストの最後の一週間をたどりつつ、その苦しみと死、葬りを心に覚える期間です。
受難週祈り会は、受難にちなんだ聖書箇所の朗読と賛美歌を織り交ぜながら進みます。
朗読箇所は、ルカ福音書22章と23章。
ユダヤ当局者によるイエス殺害の計略、ユダの裏切り、過越祭と主の晩餐、オリーブ山での祈り、イエスの逮捕、ペトロの否認、裁判、十字架、イエスの死、葬りまで、長い箇所が朗読されていきます。

朗読を聴きながら目を閉じると、場面場面の光景が浮かんできます。まるで自分もその中にいるかのように感じられます。賛美歌の歌詞の一つひとつが心に刺さります。
内容が内容なだけに、雰囲気は重くなります。主が背負われた苦しみの重さ…。
「だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」
(日本聖書協会「聖書 新共同訳」ルカによる福音書22章53節b)
今年は、ご自身が逮捕されるときに、イエスが語ったこの言葉が心に残りました。
受難物語には、数多くの人々が登場します。イエスを殺そうとする宗教指導者たち。彼らにイエスを売ったユダ。イエスを尋問したローマ総督ピラト、ガリラヤ領主ヘロデ。イエスを十字架につけるよう要求したユダヤ民衆。イエスを侮辱したローマ兵士たち。そして、イエスを見捨てて逃げてしまった弟子たちと、イエスのことを三度知らないと言ってしまったペトロ。
彼らの姿は、私たち自身の姿です。私たちのうちにある醜さ、弱さ、愚かさ……受難物語には、そうした私たち人間の「罪深い姿」が凝縮して描かれています。
「だが、今はあなたがたの時で、闇が力を振るっている………」
はたして、「あなたがたの時」に対する「神の時」は訪れるのでしょうか?この世界と私たち人間は、永遠に「闇」の中に封じ込められてしまうのでしょうか?
イエスの受難物語は、徐々に緊張を高め、やがて彼の死によってそのピークに達します。そして、イエスは葬られ、弟子たちは絶望するのです。
朗読の後は、聖餐です。聖餐には、いろいろな意味、とらえ方があるのですが、この受難週祈り会での聖餐は、最後の晩餐の追体験となります。
「わたしの記念としてこのように行いなさい。」(日本聖書協会「聖書 新共同訳」ルカによる福音書22章19節c)
パンと杯をいただくという具体的な行為をとおして、私たちはより深く主イエス・キリストの福音を知るのです。
主の受難を想いながら、みな、言葉少なに教会を後にしました。
