2025年元日、午前11:00~12:00、新年礼拝(オープン礼拝)を行いました。

お天気も良く、本当におだやかな朝でした。

新年にふさわしい賛美歌を歌い、聖書の言葉に耳を傾け、この一年が神に守られ、祝福されるように、心を合わせて祈りました。

新年礼拝で歌う賛美歌は、もう何年も同じ曲2曲を歌っています。

聖歌40番「せいなるかな」と聖歌352番「にいどしのあさ」です。

いつもと同じ場所で、いつもと同じような顔触れで、いつも歌っている賛美歌を、いつもと同じように歌う。しかし、そこにはいつもとちがう礼拝者たちの思いを感じました。

「いつもと同じ」ということが、実は当たり前のことではないのだということを、深く深く覚えました。そして、そうではない状況の中にある人々のことを覚え、祈りました。

聖書のお話では、ルカによる福音書 24章13~35節から、
「目が開かれ続けていく歩み」というタイトルでお話をしました。

「目が開かれ続けていく歩み」

一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、「道に話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。

(日本聖書協会「聖書 新共同訳」ルカによる福音書24章30~35節)

1.二人は暗い顔をして立ち止まった

イエスが復活した日曜日の出来事です。エルサレムからエマオという村に向かって、二人の弟子が歩いていました。彼らは、ここ数日のうちに起きた一連の出来事について話していました。

彼ら弟子たちがメシアと信じ、イスラエルを解放してくださると期待していたイエスは、木曜日の夜、捕えられてしまいました。そして、金曜日の早朝、裁判にかけられ、死刑が確定。その日のうちに十字架につけられ、息を引き取られました。

すぐに墓に葬られたのですが、この日曜日の早朝、仲間の婦人たちがイエスの墓に行くと、葬られたはずのイエスの遺体がなくなっていました。そして、戻ってきた彼女たちは、「天使たちが現れて、『イエスは生きておられる』と告げました」と言うのです。仲間の何人かが墓へ行きましたが、婦人たちの言ったとおり、イエスの遺体は見当たりませんでした。

二人の弟子は、これらすべてのことについて、動転し、悲しみ、困惑し、混乱していたのでした。

そこに新たなる道連れが加わります。見知らぬ彼は、「歩きながら話しているその話は、何のことですか?」と尋ねました。

二人は暗い顔をして立ち止まり、すべてを説明したのでした。

新年の始まりに、私たちはこの一年も無事穏やかに過ごせますようにと祈ります。しかしまた、生きていれば、動転し、悲しみ、困惑し、混乱するような出来事に遭遇することもあることを知っています。

この二人の弟子ではありませんが、人生の旅路を歩きながら、「なぜ?どうして?」と互いに問いかけ、答えを見つけることもできず、暗い顔をして立ち止まる。私たちにも、そういうときがあるのではないでしょうか?

2.近づき、共に歩んでくださる主

二人の弟子に近づき、歩みを共にし、話に加わった見知らぬ旅人。

この話の結末を知っている私たちは、この人こそ、復活された主イエスだと分かっていますが、この時点で二人の弟子は、まだそれに気づいていません。

復活したイエスを目の前にし、語り合っていながら、それがイエスだとは気づかない。

案外、私たちの人生には、そういうことがたくさんあるのかもしれません。主が近づき、共に歩んでくださっているにもかかわらず、そのことに全く気づかずに歩んでいる。

しかし、このことの中に、私は大きな慰めを感じるのです。

私たちが知らぬ間に、気づかぬ間に、主イエスは悲しみや困惑する出来事の中にある私たちに近づき、そのような私たちと共に歩もうとしてくださる。いやすでに歩み始めてくださっている。

ただそのことに私たちが気づいていないだけ、見えていないだけということが、人生には実はたくさんあるのではないかと思わされるのです。

3.すると、目が開かれ、イエスだと分かった

しかし、二人の弟子が、そのことにハッと気づくときが来ます。

家に入り、食卓に着き、イエスがパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しくださったそのとき、二人の目が開け、イエスだと分かったんですね。

この「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」という一連の動作は、当時の食事の際の習慣でもありますが、読者である信者には、加えて最後の晩餐のイエスを思い起こさせ、教会における聖餐を思い起こさせます。この部分には、のちの教会の信仰が反映されているんですね。

つまり、こういうことが言えると思います。イエスだと分かるその瞬間は、教会の聖餐を中心とする、神との交わりの中で訪れる。

教会に来たはじめから、神やイエスのこと、聖書のことをよくわかっていたという人はまずいないでしょう。私もそうでしたが、どなたも、最初はそうしたことはまったくわからなかったのではないでしょうか。

しかし、教会に通うようになり、聖書の話を聞くようになり、自分でも聖書を読むようになり、そうした教会の交わりの中で歩んでいるうちに、ある日、あるとき、「ああ、イエス様が私と共にいてくださるんだ」とわかるその瞬間が訪れる。

同じことは、信者にもいえます。すでにイエスを知っている。すでにイエスを信じている。しかし、何かの瞬間に、「ああ、私はわかっていなかった。見えていなかった。イエスが共にいてくださるということが!」という瞬間が、信者にもあるんですね。

そういう意味で、信仰の歩みとは、神によって、イエスによって、「目が開かれ続けていく歩み」ということができるでしょう。

興味深いのは、二人の弟子は共におられるお方がイエスだと分かったんですけど、分かったときには、もうイエスの姿は見えなくなっていたということです。

「イエスが共にいてくださることがわかる」「イエスを信じる」ということは、本質的には「悟らされる」ということなのであって、復活したイエスの姿をこの肉眼で見るかどうかによることではないんですね。

そして、二人の弟子は語り合いました。

二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。(同 24章32節)

聖書を読んでいるとき、説教を聴いているとき、私たちは文字を追い、説教者の声に耳を傾けているのだけれど、そこにイエスの声が重なって聞こえてくる。

もちろん、私たちはイエスの肉声を聞いたことはないのですが、しかし、何と言えばよいのか、「イエスだ」とわかるその声が私たちの心に、魂に響いてくる。

その声に、慰められ、励まされ、心燃やされて、私たちはこの人生を生きていくのです。

 というようなお話をしました。

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聖書の話に興味をお持ちになられましたら、ぜひ教会をお訪ねください。

「主日礼拝」は、毎週日曜日 午前10:30~12:00に行われています。

一般の方々を歓迎する「オープン礼拝(主日礼拝体験会)」もあります。

お問い合わせは、こちらから ⇒ 富山キリスト教会「お問い合わせフォーム」

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教会に通い続けてくださっている男性が、お正月らしい寄せ植えを作ってお持ちくださいました。梅はつぼみがふくらみ始めています。来週あたり開くでしょうか。

ほんとうにおだやかな元日の朝でした。