12月28日(日)、今日は2024年最後の主日礼拝日でした。
とはいっても、いつもと変わらない礼拝。
この一年を振り返り、一同、神への感謝の祈りをささげました。
説教のタイトルは、「それでも、人生は続く」。
マタイによる福音書1章18~25節からお話ししました。
「それでも、人生は続く」
1.インマヌエル~神は我々と共におられる~
マタイによる福音書1章18~25節は、主の天使がヨセフの夢に現れて、救い主の誕生を告げたお話です。
福音書記者マタイは、救い主誕生のその意味を記しています。
このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
(日本聖書協会「聖書 新共同訳」マタイによる福音書1章22,23節)
神は、ご自分が私たちと共におられることを示そうとして、救い主イエスを誕生させたのでした。
救い主の誕生は、神が我々と共におられることのしるし、なんですね。
2.神が共におられるなら、なぜ?
こうして、ヨセフはマリアとそのお腹の子を受け入れたのですが、そのことで彼には困難な事態が続きます。
マタイ福音書の続く2章をお読みいただくと、こういうお話になっています。
まず、ユダヤの都エルサレムに、東の方から占星術の学者たちがやって来ます。彼らは、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」の星を見て、その方を拝みに来たのでした。
ユダヤ人の王であるヘロデは、これを聞いて不安になります。自分の地位をおびやかす存在が現れたと思ったんですね。それで学者たちに、「自分もその方を拝みたいから、見つかったら知らせてくれ」と言って送り出すのです。拝みたいというのは、ウソです。居場所がわかったら、彼を亡き者にしようとしたのでした。
学者たちは、星に導かれ、救い主とお会いすることができました。そして、夢で御告げを受け、ヘロデのもとには戻らずに、自分たちの国へ帰って行きました。
ヨセフも夢で御告げを受けます。「ヘロデが幼子を殺そうとしているから、妻子を連れてエジプトに逃げなさい。」ヨセフは起きて、夜のうちに出立します。危険が迫っていると悟ったからです。
ヘロデは学者たちがヘロデのもとに戻らずに帰ってしまったことを知って、怒り心頭に発します。そして、イエスが生まれたベツレヘム周辺の二歳以下の男の子を、一人残らず殺させてしまうのです。どの子がイエスかわかりませんから、同じ時期に生まれた男子を・・・。
ヘロデが死ぬと、ヨセフはまたも夢で御告げを受けます。「イスラエルに戻れ」と。
ヨセフはイスラエルに戻りましたが、ヘロデの子が跡を継いでいることを知り、命の危険を感じ、恐れます。
すると、夢でお告げがあり、難を避けて、辺境の地であるガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に隠れて住んだ、ということなのです。
イエスと名付けたその子は、「インマヌエル~神は我々と共におられる~」という子だったはずです。
ところが、どうでしょう?
ヨセフとその家族のその後の歩みは、命をねらわれ、逃げ続けなければならなくなるという歩みだったわけです。
「神は、我々と共におられるはずではなかったのか!?」
「神が我々と共におられるのなら、どうしてこんな目に!?」
そう思ったとしても当然の状況です。
3.いや、神が共におられるからこそ
多くの方は、「宗教」というものを誤解なさっているような気がします。
願い事をかなえてくれて、ご利益を与えてくれて、ものごとすべてを順風満帆に運んでくれるもの、それが宗教だというのです。
確かに、宗教にはそういう願いに応えようとする部分がありますが、しかし、どんなに祈り願っても、思うようにならないのが人生です。それが人生の現実です。
そこで、考え方をこう変えてみてはいかがでしょう?
そのような人生だからこそ、それを支えてくれる力が必要なのであり、それが宗教なのだと。
「神が共におられるなら、なぜこのようなことに・・・?」と思える状況の中で、しかし彼ヨセフは、その状況を生き抜いていったわけです。
なぜ、それができたのか?
「神が我々と共におられる」ということを信じたからです。
厳しい人生の現実を受け止めたうえで、「しかし、その中にも神が我々と共におられる」と信じたからこそ、その現実を生き抜いていくことができた。
しばしば、宗教を信仰することは現実逃避をしているように受け止められますが、ヨセフの生き方を見るときに、宗教を信じること、神を信じることは、現実逃避ではなく、むしろ現実に向き合い、その現実の中を生き抜く力となっているのではないかと思えるのです。
だから、「それでも、彼は生きていく」。
この一年、みなさんそれぞれにいろいろなことがあったと思います。よいことも、そうでないことも。人生には、晴れの日もあれば、雨の日もあります。
しかし、どのような時にも、「神は我々と共におられる」。
そのことを信じるときに、慰められ、いやされ、励まされ、不思議にも生きる力が湧いてくる。
だから、「それでも、彼は生きていく」「それでも、私たちは生きていく」ことができるのです。
というようなお話をしました。
聖書の話に興味をお持ちになられましたら、ぜひ教会をお訪ねください。
「主日礼拝」は、毎週日曜日 午前10:30~12:00に行われています。
一般の方々を歓迎する「オープン礼拝(主日礼拝体験会)」もあります。
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