2025年6月8日(日)午前9:30~10:00、洗礼式をしました。
洗礼は、イエスをキリスト(救い主)として信じる信仰告白の儀式であり、教会に加入する儀式です。
「イエス・キリストを信じ、人生を新しく歩み始めるスタート」という意味で、ご本人にとっても、教会にとっても喜びの日です。

受洗礼者は、洗礼槽(小さなプール)の中で、全身を水の中に浸されます。
これはイエス・キリストに浸され(結びつけられ)、キリストの体なる教会に浸される(結びつけられる)ことを表しています。この洗礼の仕方を浸礼(しんれい)といいます。
洗礼には、ほかに頭に水を灌ぐ灌水礼(かんすいれい)や、頭に水滴をかける滴礼(てきれい)があります。
今回洗礼を受けられたのは、おひとり。
賛美歌、聖書の朗読に続き、「洗礼を受けるに至ったいきさつ」を語っていただき、お祈りと誓約の後、洗礼が授けられました。
笑顔と祝福に包まれた洗礼式でした。
おめでとうございます。神の恵みが豊かにありますように。

洗礼式に続いて、主日礼拝が行われました(主日礼拝は、毎週日曜日に開かれている礼拝です)。
説教タイトルは、「イエスと共にどこまでも」。
ヨハネによる福音書6章22~71節からお話ししました。
イエスと共にどこまでも
イエスに付き従っていた多くの弟子たちが、イエスのもとを離れ去ったお話です。
1.人々はイエスを捜し求めた
この箇所は、イエスが5つのパンと2匹の魚で5,000人を満腹させた奇跡物語からの続きとなっています。
イエスの奇跡を体験した人々は、「彼こそ、神が約束された来るべき預言者だ」と言って、イエスを王にするために連れて行こうとしました。
このお方を王とすれば、いつでもパンを出してくれるし、奇跡を起こしてどのような問題も解決してくれる。そしてローマからユダヤを解放し、国を再興してくださるにちがいない。そう思ったのでしょう。
彼らの期待もわからなくはありませんが、こういう見方もできます。「彼らは、自分たちの願いを実現するために、イエスを利用しようとしたのだ」と。
実際、イエスはこのあと、ご自分を捜し求めてやってきた彼らにこう言うのです。
「あなたがたがわたしを捜しているのは、私が何者であるかを知ったからではなくて、ただパンを食べて満腹したからだ。あなたがたは、わたしが何者であるか、なぜ神が私をお遣わしになったのかということを知ろうとしない。奇跡を起こしてパンを出しさえすれば、あなたがたは満足なのだ。」(意訳)
2.かみ合わないやり取り……そして人々は離れ去った
ここからイエスは、ご自分が何者であるか、なぜ神がご自分をお遣わしになられたのかを、人々に語ります。
しかし、それがどうにもこうにも人々に伝わらないのです。
イエスは、ご自分をパンに例えて言われます。
「わたしは天から降って来た命のパンである。」
人々はそれを「食べるパン」の話として聞きますし、イエスが「わたしは天から降って来た」と話しているのも全く理解できません。「お前はヨセフの息子のイエスじゃないか。」
イエスが「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と言えば、「どうしてこの人は自分の肉を食べさせることができるのか」と言い始めます。
イエスが「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」と言うと、人々は、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と言いました。
イエスの言葉には、いつもその奥にもう一つの言葉があります。表面的に、あるいは頭で聞こうとするだけでは理解できない、こころに響いて来る言葉があるのです。
「パンを出してくれ、奇跡を見せてくれ」とだけ求めている彼らには、そのイエスの言葉が聞こえない、響かない。
かみ合わないやり取りが続き、イエスについて来た人々の多くがイエスのもとを離れ去っていきました。彼らは、もはやイエスと共に歩かなくなってしまいました。
そこでイエスは、ペトロら十二人の弟子たちにも問いかけます。
「あなたがたも離れて行きたいか」
3.わたしたちはあなたについて行きます
イエスの問いかけに、シモン・ペトロが答えました。
「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
(日本聖書協会「聖書 新共同訳」 ヨハネによる福音書6章68,69節)
人々が離れ去る中、ペトロたちはイエスのもとに留まったのです。
彼らがイエスのもとに留まったのは、なぜでしょう?
それは、イエスが永遠の命の言葉を持つお方であると知ったからなんですね。
人々はイエスに奇跡を求めてついて来たのですが、ペトロたちがイエスに求めていたのは、彼らの心に響いてくる、イエスが語る「永遠の命の言葉」であったのです。
イエスと共に歩み続ける中で、彼の語る言葉を聞き、彼の行うわざを見、彼らはイエスが何者なのかを悟り始めました。「あなたこそ、永遠の命の言葉を持つお方です。神から遣わされたお方です。」
さて、みなさん。わたしたちは、なぜ毎週礼拝に集うのでしょうか?
それは、ペトロたちと同じく、わたしたちも主イエスが語ってくださる「永遠の命の言葉」と求めて、集っているんですね。その言葉を聴くために、その言葉を聴きたくて、わたしたちは毎週毎週、主イエスのもとに集っています。
「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」
(日本聖書協会「聖書 新共同訳」 マタイによる福音書4章4節)
主イエスの言葉は、わたしたちのたましいを活かす「永遠の命の言葉」です。
「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」
共に歩み続けていきましょう、イエスと共にどこまでも!
というお話をしました。


主日礼拝では、聖餐も行いました。イエス・キリストの象徴であるパンとぶどう液をいただく礼典(特別な儀式)です。
今日、洗礼をお受けになった方にとっては、初聖餐。イエスの死と復活に結ばれて、新しく生きる者とされた喜びを感じる幸いな時となりました。
