2024年12月、クリスマス礼拝を行いました。
「小さな教会の小さなクリスマス」ということで、クリスマス礼拝を、12月14日(土)、15日(日)、21日(土)、22日(日)の4日間、同じ内容で開催しました。各集会にいらしてくださったみなさま、ご来会ありがとうございました。
今年も、初めていらしてくださった方々との出会いがあり、久しぶりの再会がありました。もちろん毎年来てくださる方も。心温まるクリスマスのこの雰囲気がいいんですよねえ。
教会は、「人が 神と出会う場所」であり、「人が 人と出会う場所」です。これからもそういう場所であり続けたいと思います。
クリスマス礼拝では、クリスマスの賛美歌を歌い、聖書から救い主イエス・キリストの誕生の物語をお話しし、神に感謝の祈りをささげました。
聖書の話のタイトルは、
「こころを照らす光」です。
「こころを照らす光」
12月25日はクリスマス。クリスマスはイエス・キリストの誕生を祝う日です。
と聞くと、イエス・キリストは12月25日に生まれたのかとお思いになるかもしれません。しかし、イエス・キリストが何年何月何日に生まれたかは、実のところわかっていないんですね。
なのに、イエス・キリストの誕生を12月25日に祝うのはなぜでしょう?
それは「冬至」と関係があります。冬至というのは、一年で昼がいちばん短く、夜がいちばん長くなる日です。私たちの住む世界が、「最も長く闇に覆われる日」と言ってもよいでしょう。
しかし、この日を境に日が一日一日と長くなり、私たちの世界は明るさを増していきます。
そこに宗教的な意味を見い出して、古くからいろいろな宗教が「太陽の神」の誕生を祝う祭りをしていました。
キリスト教では太陽を神として祀るということはしませんが、主イエス・キリストが世の光、命の光として来られたことを覚え、やはりこの冬至の時期、12月25日にキリストの誕生を祝うようになったそうです。
暗闇の中で、人は不安や恐れを抱きます。しかし、そこに光が訪れるとき、私たちの心に安心や希望が生まれます。
今日は、そのことについてお話しさせていただきたいと思います。
タイトルは、「こころを照らす光」です。
1.だれにでも夜がある
第一番目にお話ししたいこと、それは「だれにでも夜がある」ということです。
「当り前じゃないか。夜が来なければ眠れないじゃないか。」確かにそうです。しかし、そういうことをお話しているのではありません。
私たち人間には、あのことこのことが気になって、夜が来ても眠れない、ということがあるでしょう。生きていれば、いろいろな悩みや不安で心が塞ぐことがありますよね。「だれにでも夜がある」というのは、そういうことを言っているのです。
で、朝を迎えるわけです。しかし、どんなに朝日が差し込んでも、心は晴れない。「もう朝か。また一日が始まるのか…。」
人間というのは不思議なもので、心に光がなかったら、外の世界がどんなに明るく輝いていても、全然楽しくないんですね。心は暗いままなのです。
でも、もし、心に光を持てたら、もし心に光を持てたなら、つらいこと苦しいことの中にあっても、その闇の押しつぶされることなく、その光に照らされて闇に耐えることができる。希望を持つことができる。前に向かって歩み出すことができる。人間とは、そういう可能性を持った存在です。
だから、私たち人間には、「こころを照らす光」が必要なんですね。
太陽の光も必要です。電気の光も必要です。しかし、何よりも大切なのは、「こころを照らす光」なのではないでしょうか。
みなさんは、そういう光を心の中にお持ちでしょうか。
2.命の光 イエス・キリスト
第二番目にお話ししたいのは、「そのような私たちを照らすために、救い主イエス・キリストがお生まれになった」ということです。
クリスマスというと明るく楽しいイメージですが、イエス・キリストが誕生したクリスマスのお話に出て来る人たちは、みな暗闇の中に生きている人たちでした。
イエスの父となるヨセフは、先祖をたどるとユダヤ王家につながる人でしたが、彼の時代、王家は没落し、彼自身は貧しい木工職人になっていました。
また、当時のユダヤはローマ帝国の支配を受けていました。皇帝の命令で、全領土の住民登録が行われることになり、ヨセフは身重の妻マリアを伴って、自分の先祖の町まで行かなければならなくなりました。
ヨセフとマリアはベツレヘムに着きましたが、泊まるところが見つからず、家畜小屋で夜を過ごすことになりました。なんともうまくいかないものです。
しかも、何とマリアはそこで産気づき、赤ちゃんを産んだのです。生まれたばかりの赤ちゃんをどこに寝かそうかと探せば、飼い葉桶しかありません。家畜のえさ箱ですよ。
私たちのこどもや孫がそのようなところに寝かされていたら、私たちはきっとこう言うのではないでしょうか。「どうして、こんなところに寝かせるんですか!」
つまり、ヨセフとマリア、そして生まれたばかりの子には、「こんなところ」しかなかった、ということなんですね。
私たちは誕生日のあいさつに「ハッピー・バースデー!」と言いますが、この状況は、客観的には、全然ハッピーじゃありませんね。
また、イエスが生まれたとき、野にいる羊飼いたちが天使の御告げを受けましたが、この羊飼いたちも暗闇の中に生きている人々でした。
当時のユダヤ社会では、羊飼いたちは人々から見下され、軽蔑され、嫌われ、疎外されていたのです。
ですから、クリスマス物語に登場する人々は、みな、「暗闇の中にある人たち」「どん底にある人たち」だったわけです。
しかし、クリスマス物語はそこに意味があるのです。
先ほど、冬至は私たちの住む世界が最も長く闇に覆われる日だと申しました。だれにでも夜があります。ヨセフやマリア、そして羊飼いたちの姿は、私たちの姿でもあるのです。
しかし、そのような暗闇の中にある私たちのために、神は御子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。
このとき生まれた赤ちゃん、つまりイエス・キリストは約30歳になって、人々に神の福音を宣べ伝え始めるのですが、彼はこう言ったのです。
イエスは再び言われた。
「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
(日本聖書協会「聖書 新共同訳」ヨハネによる福音書8章12節)
クリスマスには、こうしてろうそくに火を灯してお祝いをします。これはイエス・キリストが世の光、命の光、こころを照らす光として来てくださったことを表しているんですね。
そのことを感謝し、お祝いするのが、クリスマスなのです。
3.こころを照らす光、それは…
三番目にお話ししたいこと、それは「こころを照らす光とは、何か?」ということです。
もちろん、今お話ししたように、こころを照らす光、それはイエス・キリストなのですが、彼はどのように私たちの心を照らしてくださるのでしょうか?
先に答えをお伝えします。こころを照らす光、それは「愛」です。イエス・キリストは私たちを愛することによって、もう一つ踏み込んで言えば、いつもどのようなときでも私たちと共にいてくださることによって、私たちの心に光を灯してくださるのです。
聖書が語る「愛」。それは、相手のことを大切に思う心、そして、それを自分なりの仕方で表すことを言います。
人生の暗闇の中を歩くとき、私たちは孤独を感じます。そして、「神は、どこにおられるのだろうか?」と思います。
私たちは、神様というと、どこか遠いところ、高いところで、私たちのことをただ黙って見下ろしているだけの動かない人というイメージを持ちます。
しかし、聖書が語る「神」はちがいます。
聖書が語る神は、私たちを愛するがゆえに、居ても立っても居られず行動する神です。私たちのために天から降りて来て、私たちに近づこうとされるお方です。
神様は、みなさん一人ひとりのことを愛しておられます。そして、暗闇の中にある人々に向かって、「あなたは決してひとりじゃないよ!」ということを、何とかして伝えたいと思っておられる。
しかし、神は目に見えるお方ではない。そこで、神は御子イエス・キリストを、目に見える人間の姿を取ってお遣わしになったのです。それがクリスマスの出来事なのです。
たとえ暗闇の中にあったとしても、だれかが共にいてくれるということで、私たちの心に光が灯ります。だれかがそばにいてくれるということで、私たちの心に生きる力が生まれます。
「そのだれかに、わたしがなろう!」
それが神のみこころであり、そこに神の愛が示されているのです。
聖書はこんなに分厚い書物ですが、この書物の中で、神は私たち人間に繰り返し、繰り返し語っておられます。
「わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたと共にいる」と。
こころを照らす光、それは「愛」です。いつもどのようなときも、神が共にいてくださる。その愛に触れるとき、私たちの心に光が灯るのです。
昨日、21日は冬至でした。この日から私たちの世界は一日一日と明るくなっていきます。
そして、今日、私たちはクリスマスを祝っています。こころを照らす光、イエス・キリストを心にお迎えしましょう。そこから、私たちの心にも神の光が増し加わっていくのです。
というお話をしました。
「すいませ~ん。クリスマス集会の雰囲気を伝えるため、みなさんのお姿の入った写真をブログに載せたいんですが、お顔が映らないようにしますので、後ろからお撮りしてもいいですか?」
「そうですね~、じゃあ、みなさんクリスマスツリーの星のほうを向いていただいてもいいですか?」
「じゃあ、いきま~す!にっこり笑って、はいチーズ!」
たぶん、みなさん、笑ってくださっているんだと思います。
4回の集会の中では、今日22日(日)の集会の出席者が一番多かったのですが、これだけ集まると賛美歌も迫力があり、なおのこと美しく響きました。
共に集い、共に歌う。それができなかった新型コロナ禍のことを思い出し、共に集い、共に歌う喜びを改めて感じました。