2023年4月30日(日)、この日の主日礼拝はオープン礼拝(主日礼拝体験会)でした。

オープン礼拝では、「キリスト教は初めて」「キリスト教や聖書の話を聞いてみたい」という方々向けのわかりやすいお話をご用意しています。

今回は、ヨハネによる福音書2章1~12節から、「カナの婚礼」というタイトルでお話をしました。

カナの婚礼 その喜びが尽きることは決してない

今日の聖書箇所は、「カナの婚礼」としてよく知られているお話です。キリスト教式結婚式でもよく取り上げられる聖書箇所で、私もブライダル牧師として、この箇所を何回もお話ししてきました。

カナという村での婚礼で、イエスが水をぶどう酒に変えたという奇跡のお話です。

今回は、この奇跡物語が何を語ろうとしているのかをお話しします。

1.言葉の奥にあるコトバ、出来事の奥にあるデキゴト

当時の婚礼は、その祝宴が1週間ほど続くものであり、結婚する二人はもちろん、家族や親戚、村の人たちが盛大に喜び祝うものでした。

祝宴にはお酒がつきものです。「ぶどう酒なければ、喜びなし」。お祝いしてくださる方々を迎える側としては、食事、ぶどう酒とも十分な量を用意しておく必要があります。

ところが、その婚礼の途中で、宴会に欠かすことのできないぶどう酒が足りなくなってしまいます。あってはならない事態です。これでは祝宴は興ざめしてしまいます。

その場にいたイエスの母は、婚礼に招かれていたイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と事情を告げます。イエスは答えました。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」

しかし、このあとイエスが係の者に、きよめ用の石の水がめ6つに水を入れさせ、それをくんで持って行かせると、水がぶどう酒に変わっていたのでした。しかも上等なぶどう酒に。イエスはこの奇跡を行うことで、婚礼が喜びを持って続けられるようにしたのでした。

水がぶどう酒に変わる!? そんなことあるわけないじゃないか!

奇跡はあるのか、ないのか。神はいるのか、いないのか。

NHK・Eテレで放送されている「100分de名著」という番組があります。今年4月は4回にわたって、「新約聖書 福音書」が取り上げられていました。ゲストは、批評家・随筆家の若松英輔さん。

販売されているテキストの表紙には、こんな言葉が書いてありました。

言葉の奥にあるコトバ

理解するのではない、心で味わうのだ

(NHK出版 NHK100分で名著 テキスト表紙)

聖書、福音書は、私たちの「心」に語りかける文書です。

とすれば、このお話も、「心で読む」「心で味わう」ということが必要でしょう。

奇跡物語の場合、奇跡のありなしを含めて、その奇跡に目を留めているだけだと、そのお話の表面しか読んでいないことになってしまいます。番組テキストのコピーをもじれば、「出来事の奥にあるデキゴト」を感ずる必要があるんですね。

奇跡そのものに目を向けるだけではなく、その奥にあるコトバとデキゴトに目を向け、このお話が伝えようとしていることを、みなさんの心で感じ取っていただきたいと思います。

2.謎の言葉「わたしの時はまだ来ていません」

ところで、イエスが語った「わたしの時はまだ来ていません」という言葉。気になります。謎の言葉です。いったい、どういう意味なのでしょう?

ヨハネ福音書において、「わたしの時」とは、イエスの十字架と復活によって「神の栄光が現れる時」のことを言います。イエスはこのとき、まだ宣教を始めたばかりで、十字架にかかるのはまだ先の話です。ですから、この時点では、「わたしの時はまだ来ていません。」

「わたしの時はまだ来ていない」のですから、イエスは何もなさらないのかと思いきや、イエスは水をぶどう酒に変え、これを「最初のしるし」として行い、「その栄光」を現しました(11節)。

「時がまだ来ていない」にもかかわらず、イエスは「その栄光」を現した。

この奇跡……、「わたしの時」、すなわち「神の栄光の現れる時」と関係がありそうです。

3.「わたしの時」に起こること ~神の国の宴会~

ここは、「わたしの時はまだ来ていません」のあとに、「しかし、わたしの時が来たときに何が起こるかを示しましょう」と補うと、イエスの真意がわかりやすくなるのではと思います。

「わたしの時」「神の栄光の時」が来たら、何が起こるのでしょう?

私たちの人生には、「ぶどう酒がなくなりました」というようなことが起こります。

欠かすことのできない何かがなくなったり、失われたりすることで、私たちは困惑し、嘆き、悲しみ、痛み、失望してしまいます。

神は、そのような私たちの現実をよくご存知です。そして、そのような私たちと共にあろうとされるお方です。神は愛です。だから、ご自分のもとに私たちを招き、私たちを慰め、いやしてくださる。それを「神の国」と言います。「神の栄光の現れる時」です。

神の国は、イエスを信じるときに私たちの心に訪れるのですが、究極的には、終末において訪れます。そこでは、神が私たちの涙をぬぐい取ってくださり、もはや死はなく、悲しみも嘆きも労苦もない。すべてがいやされ、報われ、与えられ、解決し、大きな喜びのときとなります。そして、その喜びが尽きることは決してありません。

つまり、イエスが婚礼の祝宴で行った奇跡は、「わたしの時」が来たときに訪れる神の国と、そこで祝われる喜びの宴会(神の国の宴会)のあり様を、私たちに「見せる」ものだったのですね。それは神によってもたらされるもので、永遠に続く喜びです。

弟子たちは、この奇跡を見て、イエスを信じるようになりました。もちろん、最初からすべてを理解して信じ従ったわけではないでしょう。信仰は、イエスと共に歩み続ける中で深められていくのですから。

でも、大切なことは、このときすべてが理解できていなくても、彼ら弟子たちには、その心に何か感ずるものがあった。だからイエスについて行った、イエスを信じるようになった、ということなのだと思うのです。

聖書、福音書は、私たちの「心」に語りかける文書です。イエスを信じて生きるように私たちに語りかけ、私たちを神の国へと招いているのです。