2024年4月7日(日)、今日はイースター(復活祭)でした。
教会では「イースター主日礼拝」が開かれ、主イエス・キリストの復活を祝いました。
喜びをもって復活の賛美歌を歌い、互いに平和のあいさつを交わし、「イースターおめでとう!」と声をかけ合いました。
今回は、ヨハネによる福音書20章1~18節から、「復活 ~あなたの名を呼ぶ声がする~」というタイトルでお話をしました。
「復活 ~あなたの名を呼ぶ声がする~」
週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアはイエスの墓に行きました。
ところが、墓に着くと、墓の入り口をふさいでいるはずの石が取りのけられています。
イエスの遺体が取り去られてしまったと思った彼女は、ペトロともうひとりの弟子のところへ走って告げに行きます。
マリアの言葉を聞いたペトロたちは、イエスの墓に急ぎます。中を確認すると、イエスの遺体はなくなっており、ただ遺体に巻かれていた亜麻布が残されているだけでした。
もしだれかがイエスの遺体を取り去ったのなら、亜麻布がまかれている状態で運ぶのが普通ではないでしょうか。ところが、亜麻布がそこに残されている…。
ペトロたちは、ただならぬことが起こっていることを理解しました。
それから、彼ら二人は家に帰って行ったのですが、マリアは墓の外に立って泣いていました。
泣きながら墓の中を見ると、二人の天使が見えました。
天使たちがマリアに問います。「婦人よ、なぜ泣いているのか。」
「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしにはわかりません。」
こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えました。しかし、マリアには、それがイエスだとはわかりませんでした。
イエスが問います。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」
マリアは、自分に問うその人を園の管理者だと思い、言いました。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」
イエスが、「マリア」と言うと、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言いました。「先生」という意味です。
復活したイエスを目の前に見ていながら、それがイエスだとはわからなかったマリア。
しかし、イエスから名を呼ばれたそのときに、彼女はそれがイエスだとわかったのでした。マリアは復活の主イエスと出会ったのです。
「見たら信じる」という方が多くいらっしゃいます。「復活したイエスをこの目で見たら、信じる」とおっしゃるのです。
しかし、復活したイエスをその目で見ても、マリアにはそれがイエスだとはわかりませんでした。
一方、私たち信者は復活したイエスをこの目で見たわけではありませんが、イエスが死からよみがえり、今も生きておられることを信じています。
見たからといって、信じられるわけではありませんし、見ていなくとも、信じることはできる。つまり、信じるということにおいて、見る見ないということは本質的には問題とならないのですね。
むしろ大事なことは、「復活したイエスが私たちの名を呼んでくださっている」ということなのではないでしょうか。
私たちの名を呼んでくださっているお方がおられる…。
イエスが私たちの名を呼んでくださったからこそ、私たちは聖書を読もうと思った。教会へ行こうと思った。そして、信じようと思った。信じることができた。
すべては、主イエスが私たちの名を呼んでくださったからなのですね。
私たちが主を信じたのではなく、主イエスが私たちの名を呼び、信じるようにしてくださった。信じさせてくださった。信仰とは、本当に不思議なものです。
主イエスは、今この瞬間も、私たちの名を呼び続けておられるのです。
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聖書の話に興味をお持ちになられましたら、ぜひ教会をお訪ねください。
「主日礼拝」は、毎週日曜日 午前10:30~12:00に行われています。
一般の方々を歓迎する「オープン礼拝(主日礼拝体験会)」もあります。
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