2026年4月5日(日)、今日はイースター(復活祭)でした。

教会では「イースター主日礼拝」が開かれ、主イエス・キリストの復活を祝いました。

ムスカリ満開! 春の小川? チューリップはもうちょっと先のようですね。

よくお花を届けてくださる方から、スイセンをいただきました。とてもよい香りです!
手前はスノーフレーク。黄色い花枝はレンギョウ。

喜びをもって復活の賛美歌を歌い、互いに平和のあいさつを交わし、「イースターおめでとう!」と声をかけ合いました。

説教では、ルカによる福音書24章1~35節から、「イエスは、今も生きている」というタイトルでお話をしました。

「イエスは、今も生きている」

今日はイースター、復活祭です。イエス・キリストの復活を祝うキリスト教で最も大切な喜びの祭りです。

キリスト教というのは、キリストという言葉が入っているように、イエスがキリスト(救い主)であるということを信じる宗教です。しかし、私たちは単に、「昔、イエスという立派な人がいた」ということを信じているわけではありません。そのイエスが死から三日目に復活して「今も生きている」ということを信じています。私たちは過去の聖人を礼拝しているのではなく、死から復活し、今も生きているお方を礼拝しているのです。

今日は、「イエスは、今も生きている」というタイトルでお話ししてみたいと思います。

1.女たちは墓に行った

週の初めの日の明け方、女たちはイエスの墓に向かいました。死者を死者として丁重に葬るためです。彼女たちの手には、死者を葬るための香料がありました。

愛するイエスが十字架で死んでしまった。彼女たちは深い悲しみと痛み、とまどい、絶望の中にありました。もはやあの顔もあの声も聞くことができない。愛する人を失ったとき、私たちも同じように深く悲しみます。彼女たちにできることは、過去のイエスを偲び、丁重に葬るということだけだったのです。

彼女たちの悲しみは、愛する人を失った悲しみだけではありません。彼女たちを含めたイエスの弟子たちは、イエスのことをユダヤをローマ帝国から解放してくれるお方だと信じ、期待していました。イエスは彼らの希望の星だったのです。そのイエスが死んでしまった。彼らは希望を失い、絶望の中にあったのです。墓に向かう彼女たちの心は、深い悲しみと絶望に覆われていたのでした。

ところが、墓に着くと異変が起きていました。墓を塞いでいた大きな石が転がされており、中に遺体がなかったのです。彼女たちが途方に暮れていると、輝く衣を着た天使が現れてこう言いました。

「なぜ、生きておられる方を死者の中に探すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」

この言葉は、彼女たちの常識を、そして私たちの常識を根底から覆します。「イエスは死んでしまった」そのことを深く悲しみ絶望する彼女たちに、神の使いは、「いや、イエスは今も生きておられる」と宣言したのです。

2.イエスはどこにおられるのか?

復活なさった?あの方はここにはおられない?
では、いったいイエスはどこにおられるのでしょうか?

興味深い出来事が後に続きます。エルサレムからエマオという村に向かって、二人の弟子が歩いていました。そこに復活したイエスが現れ、一緒に歩き始めます。最初、二人の目は遮られていて、それがイエスだとは気づきませんでした。食事の席で、イエスがパンを割いて渡された瞬間、じつはこれは最後の晩餐の席上でのイエスの姿でもあったのですが、彼らはようやくハッと気づいたのです。しかし、その瞬間にイエスの姿は見えなくなっていました。

確かにここにおられたのに、いなくなった。いなくなったけど、ここにおられたのは確かだ。これがイエスの復活の不思議なところであるのですが、しかしまた、とても大事な部分でもあるのです。

「目に見えないものは信じない」と私たちは言いがちです。しかし、イエスは、私たちにこう語りかけておられるのではないでしょうか。「目に見えるかどうかは、実は大事なことではない。目に見えても見えなくても、わたしはいつも、あなたと共に、あなたの隣にいるのだ。それを信じることが大切なことなのだ」と。

イエスはどこにおられるのか。イエスは復活されて、弟子たちとそして、私たちと共におられるのです。

3.わたしたちの心を燃やす方

ところで、イエスが私たちと共におられるというのなら、どうしたらそのイエスと出会うことができるのでしょうか。わかるようになるのでしょうか。

二人の弟子はこう語り合いました。
「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」

「心が燃える」とは、単に感情が高ぶることではありません。それは、悲しみや絶望で冷たくなっていた心に、イエスの言葉によって再び灯がともることです。命を失っていた心が、もう一度動き始めることです。

イエスが生きておられることは、その姿が見えるかどうかでわかるのではありません。心に響くイエスの声、聖書の言葉を聴くことでわかることなのです。

「今、主イエスが、私の心に語りかけてくださっているのではないか…」。それがわかる。ハッと気づく。そのとき、たとえ目に見えなくとも、私たちはイエスに出会っているのです。

これは2000年前の弟子たちだけの体験ではありません。今日の私たちにも起こることです。

私自身も、教会に通い始めた頃、なかなか信じる決心がつきませんでした。しかし、あるとき、「わたしが道であり、真理であり、命なのだ」というイエスの言葉が頭から離れなくなったのですね。イエスのその言葉に心をとらえられたと言ったらよいでしょうか。そして、「これはイエス様が私に語っておられるのかもしれない」と思うようになり、イエスを信じるようになりました。

苦しいときや迷うときにも、聖書の言葉はいつも私の心に灯をともしてきました。復活されたイエスは、今も生きて、私たちに語りかけてくださるのです。

むすび:イエスは、今も生きておられる

復活したイエスは、今も生きておられます。

それは、どこか遠い空の上で静かに存在しているということではありません。イエスは今も、この場所で、そして、日々の生活の中で、私たちに寄り添い、語りかけ、心に灯をともそうとしてくださいます。慰め、励まし、勇気づけてくださいます。

人生には、途方に暮れる出来事が起こります。しかし、「ここにわたしがいる。死から復活したわたしがいる。このわたしがあなたと共にいて、あなたにも復活の命を与えよう」と語りかけてくださいます。

あなたもそのあたたかい声をお聞きになりたいと思われないでしょうか。

ぜひ、これからも教会に足をお運びください。共に聖書の言葉に耳を傾けましょう。復活されたイエスの言葉が、イエスの声が、あなたの心にも届くように、心からお祈りいたします。

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聖書の話に興味をお持ちになられましたら、ぜひ教会をお訪ねください。

「主日礼拝」は、毎週日曜日 午前10:30~12:00に行われています。

一般の方々を歓迎する「オープン礼拝(主日礼拝体験会)」もあります。

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