
教会玄関ホールに飾られた、教会メンバーの聖句書道作品です。
「わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ」
旧約聖書「創世記」に、ヤコブという人が出てきます。信仰の父アブラハム、その子イサク、そしてイサクの子がヤコブです。
このヤコブという人は、生涯通して人間関係の苦しみを背負って生きた人でした。
父や母との関係、兄との争い、伯父との争い、家庭内における二人の妻、二人の側女の問題、彼女たちから生まれた12人の息子たちの争い、そして最愛の子ヨセフを失うなど、とにかく彼には人間関係の悩み苦しみが尽きませんでした。
しかも、自分自身にその原因が多分にある…。まあ、そういう人だったんですね。
そういう彼でしたが、彼は自分に現れてくださった父祖アブラハムの神、イサクの神を「自分の神」とし、生涯通してこのお方を信じて歩み続けました。
確かに、彼の行くところどこででも問題が起こります。しかしまた、彼の行くところどこででも、神が彼と共にあり、彼の人生を支え、導き続けてくださいました。
羊飼いがその羊を導くように、牧者なる神は真実誠実にヤコブを導き続けたのです。ここに神の憐れみと慰めがあります。
最愛の子ヨセフは、あるとき行方知れずとなり(事実は、兄たちによって売られてしまったのですが)、ヤコブはヨセフが野獣に食われ、かみ裂かれてしまったものと思い、嘆き悲しみます。
ところが、かなりの年月が経ってから、死んだものと思っていたヨセフが生きていて、エジプトの宰相となっていることを聞かされます。そして、ヤコブはヨセフのもとを訪ね、涙の再会を果たすのです。
彼自身、自分の人生が苦しみ多い人生であったことを告白しています。エジプトの王ファラオから年齢を問われたときに、ヤコブはこう答えるのです。
「わたしの旅路の年月は百三十年です。わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません。」
(日本聖書協会「聖書 新共同訳」創世記47章9節)
ヤコブの生涯の終わりの日が近づきました。ヨセフが二人の息子を連れてヤコブのもとを訪ねます。ヤコブはヨセフを祝福して言いました。
「わたしの先祖アブラハムとイサクがその御前に歩んだ神よ。
わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ。
わたしをあらゆる苦しみから贖われた御使いよ。
どうか、この子供たちの上に祝福をお与えください。
(日本聖書協会「聖書 新共同訳」創世記48章15~16節)
どうか、わたしの名とわたしの先祖アブラハム、イサクの名が
彼らによって覚えられますように。
どうか、彼らがこの地上に数多く増え続けますように。」
苦しみの多い人生だった……。しかし、神はいつも共にいて、わたしを助け支えてくださった。ここまでこうして歩んでくることができたのは、ただただ神の憐れみによる。
そういう思いがあったのでしょう。そこで、ヤコブは神にこう呼びかけるのです。
「わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ。」
ヤコブではありませんが、私も自分自身の愚かさのゆえに、多くの失敗や苦しみを抱えて生きてきました。そして、それはこれからも変わらないと思います。
けれども、そのような私の生涯を今日まで導いてくださった牧者なる神が、これからも変わらず、生涯終わりの日まで導き続けてくださる。
やがて訪れる生涯終わりの日に、ヤコブのように、私も神に呼びかけたいと思うのです。
「わたしの生涯を今日まで導かれた牧者なる神よ」と。
そして、感謝の祈りをささげ、人々を祝福する祈りをささげたい、なんていうことを思っているのです。
………というようなことを、だいぶ前に教会のみなさんにお話ししたんですね。それを覚えてくださっていた方が、このヤコブの神への呼びかけを書道作品にしてくださいました。
