2023年4月16日(日)、新年度が始まって2週間。日曜日に教会に集い、仲間たちに会えるとホッとします。

シモン・ペトロが答えた。

「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。

 あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」

(日本聖書協会「聖書 新共同訳」ヨハネによる福音書6章68節)

私たちの教会では、毎週日曜日午前10:30から12:00まで、「主日礼拝」(しゅじつれいはい)を行っています。

主日礼拝は教会が最も大切にしている集会で、賛美歌を歌い、祈りをささげ、聖書の言葉に耳を傾け、神を礼拝しています。

今日の主日礼拝では、教会メンバーそれぞれに信仰について語っていただく時間を設けました。

主の恵みを語る、証言するという意味で、キリスト教会では「証し会」(あかしかい)と呼ばれています。

お互いを知り、慰められ、励まされする、私たちにとっては密度の濃い時間です。

強制ではないので、話すも話さないも自由。

今回はテーマは設けず、それぞれが近況も含めて、主の恵みや、今思っていること、祈っていることを語り合いました。

「生きているといろいろなことがありますが、聖書の言葉や礼拝での説教の言葉に慰められ、励まされて、毎日を歩んでいます」という体験談を聞くことができました。

今日の礼拝説教は、まさにその「言葉」をテーマにしたお話をしました。

タイトルは、「永遠の命の言葉を持つお方」

ヨハネによる福音書6章66ー69節からお話ししました。

「永遠の命の言葉を持つお方」

イエスは五つのパンと二匹の魚で5,000人を養う、という奇跡を起こします。

イエスはその後、その場を去ってほかの場所に行くのですが、群衆はいなくなったイエスを捜し求め、ようやくのことで見つけます。

するとイエスは、彼らにこう言うのです。

イエスは答えて言われた。

「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」

(日本聖書協会「聖書 新共同訳」ヨハネによる福音書6章26節)

こういうことです。

イエスの奇跡は、イエスが神から遣わされたメシア(キリスト、救い主)であることのしるしです。しかし、彼らはそれを見たから(正しく理解し、信じたから)イエスについて来たのではありません。

「あなたがたは、パンを食べて満腹したから、つまり、奇跡見たさに、あるいはパンがほしくて(日常の問題を解決してほしくて)ついて来ているにすぎない。」イエスはそう指摘しているのです。

もちろん、イエスは私たちが生きていく上でのさまざまな必要をご存知であり、私たちに対する憐れみの心をお持ちです。しかし、イエスは「ご自分が何者であるか」を人々に知らせ、神との交わりに招きたいと願っておられます。

そこで、ここからイエスは、ご自分が「命のパン」「天から降って来た生きたパン」であることを語り始めます。

「このパンを食べるならば(つまり、わたしイエスをメシアと信じるならば)、その人は永遠に生きる。」

NHK・Eテレの「100分de名著」という番組で、この4月、「新約聖書 福音書」が取り上げられています。ゲストは批評家、随筆家の若松英輔さんです。

テキスト表紙には、次のような言葉が書かれています。

「言葉の奥にあるコトバ」
「理解するのではない、心で味わうのだ。」

福音書の中でイエスが語るとき、その言葉には、その奥に「言葉」を超えた「コトバ」がある。「言葉」を聞くだけでなく、その奥にある「コトバ」を聴き取る必要がある。それは理解するのではなく、心で感じ取るものなのだ、ということをおっしゃっているんですね。

この場面でも、「言葉」を超えた「コトバ」を心で聴く、ということが大切です。

群衆も、そしてイエスの弟子たちの多くも、イエスの「言葉」を聞いていますが、その奥にある「コトバ」が聴こえていません。

彼らは、イエスがメシアであるかどうかには関心を持ちません。イエスの奇跡をみたい、自分の問題を解決していただきたいというところに、とどまっているのです。

また、イエスがメシアだと彼らが思っていたとしても、そのメシア理解はやはり地上的な解放者の理解にとどまっており、ご自分の肉と血、つまりご自分の命を私たちに差し出してくださる神の御子であることは理解できていません。

結果的に、彼らはイエスから離れていきます。

このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。

(同 ヨハネによる福音書6章66,67節)

そして、冒頭のシモン・ペトロの言葉が続くのです。

シモン・ペトロが答えた。

「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」

(同 ヨハネによる福音書6章68節)

ペトロたちは、イエスの「言葉」の奥にある「言葉」を超えた「コトバ」、すなわち、「永遠の命の言葉」を聴いていたのですね。その言葉に惹きつけられ、それを聴こうとして従っていた。

だから、多くの者がイエスのもとを離れ去っても、彼らはイエスを離れず、そのもとにとどまり続けたのです。

さて、みなさん。

なぜ、私たちは毎週日曜日に教会に集うのでしょう。主日礼拝に集うのでしょう。

それは、主イエスが永遠の命の言葉を持っておられることを、私たちも知っているからなのですね。

聖書の言葉、主イエスの言葉を聴くとき、その言葉が、私たちへの語りかけとして心に響く。その言葉に慰められ、励まされ、不思議にも心が満たされ、生きる力が湧いてくる。

主イエスの言葉は、私たちのたましいを生かす「永遠の命の言葉」なんですね。その言葉を聴きたくて、聴こうとして、私たちはこうして集っているのです。

人は、パンだけで生きる存在ではありません。人は、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる、生かされる存在なのです。

「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」

この一週間も、主の恵みが豊かにありますように。