2023年6月18日(日)、この日の主日礼拝はオープン礼拝(主日礼拝体験会)でした。
オープン礼拝では、「キリスト教は初めて」「キリスト教や聖書の話を聞いてみたい」という方々向けのわかりやすいお話をご用意しています。
今回は、ヨハネによる福音書5章1~30節から、「安息日の奇跡 ~起き上がり、歩きなさい~」というタイトルでお話をしました。
安息日(あんそくび)の奇跡 ~起き上がり、歩きなさい~
今日の聖書の箇所は、ヨハネによる福音書のイエスの奇跡の3つ目のお話です。今回は、38年も病気で苦しんでいた人を、イエスがいやしたお話です。
ベトザタの池で病人をいやす -解説-
今日の箇所は、本当は5章1節から30節を超えて、47節まで続く長いお話です。今日は、5章1節から30節までの部分を取り上げてお話しします。
この部分は、次の3つの部分から構成されています。
(1)5:1-9 ベトザタの池でイエスが病人をいやす
ベトザタの池で、イエスが38年も病気で苦しんでいた人をいやします。
(2)5:10-18 ユダヤ人たちがイエスを迫害する
その日が安息日であったため、ユダヤ人たちがイエスのしたことを批判します。しかし、イエスは、それを神のご意志であると主張し、また神を自分の父と呼んで、自分を神と等しい者としました。ユダヤ人たちは、これを神に対する不敬罪とし、イエスを殺そうとねらうようになります。
(3)5:19-30 イエス、ユダヤ人たちに語る
イエスはユダヤ人たちにはっきりと語ります。
……子が父に従うように、わたしは父なる神に従い、神の御心を行っている。父(神)とわたし(イエス)は一つである。そして、父の御心は、人々に永遠の命を与えることである。やがて来る神の国(終末における救いの時)において、父は死者を復活させて永遠の命を与え、生きる者とされる……。
はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」
(日本聖書協会「聖書 新共同訳」ヨハネによる福音書5章24節)
イエスの奇跡の1回目「カナの婚礼」の奇跡も、2回目の「役人の息子をいやす」奇跡もそうでしたが、イエスの奇跡は、やがて来る「神の国」がどのようなものであるかを私たちに見させ、イエスを信じるように促すためのものです。3回目の今回も同じです。
イエスは、「神の国が訪れる時、どんなに長い間病気で苦しんでいた人もいやされる。そして、神は死者を復活させて、永遠の命をお与えになる」ということをお示しになったのです。
特に今回の奇跡は、それが「安息日」(あんそくび)に行われたことに意味があります。
安息日は、ユダヤ教の律法で定められた礼拝日です(キリスト教はユダヤ教から派生しました。イエスも最初の弟子たちも、みなユダヤ人でユダヤ教徒でした)。安息日は、神が6日間で世界を創造され、7日目に安息なさったことに由来します(創世記1、2章)。
安息日は神を礼拝する日として、床を担ぐことも含めて、一切の労働が禁じられていました。ちなみに、「床(とこ)を担ぐ」とは、平たく私たちの言葉で言えば、「ふとんをたたむ」と同じような意味です。
イエスは、この人をいやすことによって、「安息日とは、神が人々に安息を与える日なのであって、やがて来る神の国において、本当の安息が与えられる。かの日において、神は人を復活させて永遠の命を与え、本当の安息を与えてくださる」ということを見せ、説いたのです。
1.謎の言葉「良くなりたいか」
長い間病気である人に、そのことを知ったうえで、「良くなりたいか」とお聞きになるとは、イエス様もなかなか大胆です。病気の人が良くなりたいと思うことは、当たり前ではないでしょうか。
ただ、彼はあきらめている部分もあったようです。イエスは、彼の本当の気持ちを呼び起こす意味で、「良くなりたいか」とお聞きになったのかもしれません。
しかし、また、1回目、2回目もそうでしたが、イエスの奇跡には、いつもイエスの謎の言葉が伴っていました。そして、その謎の言葉には、「言葉の奥にあるコトバ」が響いていました。つまり、イエスの言葉や話には、人々がその耳で聞く言葉と、イエスがその人の心に語りかけているコトバの二重性があるのですね。
とすれば、ここでも、病気がいやされることを願うかという意味で「良くなりたいか」と聞いているだけでなく、もう少し深いことを彼の心に問いかけていると考えることができるでしょう。
みなさん、「良くなる」とは、どういうことでしょう。あなたにとって、本当の意味で「良くなる」とは、どういうことでしょう。病気が治ることでしょうか。試験に合格することでしょうか。経済的に安定することでしょうか。人から認められることでしょうか。
どれも大切な願いだと思いますが、「人間の幸福は、それらとはまた別のものである」ということを、私たちは思い出す必要があります。
この奇跡が安息日に行われたことには、意味があります。あなたが望む安息とは何でしょう。あなたが本当に得たい安息とは、どのようなものでしょう。
生きることには、病気をはじめ、悩みや苦しみが伴います。……しかし、神は、あなたがたを神の国に招いてくださっている。やがて来る神の国において、あなたがたは神の与えてくださる永遠の命を得て、それらのものから解放され、起き上がり、新しく歩きだすことができる。そして、それを信じるからこそ、あなたがたは今、(これまでとは違う意味で)起き上がり、新しく歩きだすことができる……。
イエスが言う「良くなる」とは、そういうことなのですね。「神とのつながりを得て、『やがて』、そして『今ここで』、得られる安息」。それこそが、本当の安息です。そして、その安息が失われることは決してありません。「良くなりたいか」とは、神が与えてくださる安息へと私たちを招く言葉であったのです。
「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」イエスがそう言われると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだしました。イエスの言葉には力があり、人を立ち上がらせ、命を与えることができるのです。
2.安息日をどうとらえるか
この奇跡が安息日に行われたことで、イエスはユダヤ人たちから迫害されるようになります。
ユダヤ人たちは、安息日(とその掟)を守ることが正しいと信じていました。それは、安息日のとらえ方として、まちがってはいません。まちがっていないと信じていたからこそ、彼らはそれを守らない人々を、そしてイエスを迫害したのです。
しかし、聖書には、「あなたは正しすぎてはならない」という戒めもあります(新日本聖書刊行会「聖書 新改訳2017」伝道者の書7:16)。正義を振りかざして、人を攻撃してはならないということなんですね。正義を振りかざして、暴力的になることを戒めているのです。
これに対してイエスは、安息日を「神が人々に安息を与える日」として理解しています。
……38年もの長い間病気であった人が、今、起き上がり、歩きだした。神は、彼をその苦しみから解放したのだ。そうだ、これを「安息」と言わずして、何と言おう。やがて来る神の国において、あなたがたは「本当の安息」を得ることができる。わたしは、その先取りとして、この奇跡をあなたがたに見せたのだ……。
何よりイエスは、自分は神の御心を行ったのだと言い、神の主権性を主張します。やがて来る神の国において、神は私たちに本当の安息を与えてくださる。そのことを示すために、神はこの安息日に、彼に安息をお与えになった。
神の主権と人間の主張する正しさがぶつかる場合、どちらが優先されるべきでしょうか。
「安息日を守ることは正しいことではありませんか。神よ、あなたは間違っている。さあ、悔い改めなさい。改めなさい」と神に向かって叫ぶとしたら、どちらが神様なのかわかりませんよね。
このように、ユダヤ人たちとイエスには、安息日のとらえ方について大きな違いがありました。
安息日は、「神が人々に安息をお与えになる日」です。神は、私たちをいやし、起き上がらせ、安息を与えて、新しく歩きださせてくださるお方なのです。
私たちキリスト信者は、このやがて来る神の国とそこで与えられる真の安息を待ち望みながら、毎週日曜日の主日礼拝において、それを先んじて味わい、感謝と喜びの祝宴を共に過ごしているのです。
3.イエスは命をかけている
さて、最後に、みなさんに知っていただきたいことがあります。
イエスは、安息日にベトザタの池で病人をいやす奇跡を行いました。それは、安息日の掟を破る行為でした。しかも、イエスは、神を自分の父と呼んで、自分を神と等しい者としました。そのため、ユダヤ人たちはイエスを殺そうとねらうようになりました。
当時のユダヤ人社会の中で、そういうことをすればどうなるか……。当然、予想できることです。殺そうとねらわれるようになる。そして、実際、殺されることになるだろう。イエスも、それをわかっていたはずです。
しかし、イエスはそれを承知の上で、覚悟の上で、この安息日の奇跡を行い、言葉を語っています。
……父は、人々を神の国に招き、永遠の命を与え、起き上がり、新しく歩きださせるために、わたしをお遣わしになった。だから、わたしは、父のみむねを語り、みわざを行わなければならない。しかし、それを理解せず、わたしを殺そうとする者たちもいる。しかし、それでも、わたしは父のみむねを語り、みわざを行わなければならない。わたしは、そのために遣わされたのだから……。
私たちは今、「ヨハネによる福音書」を読んでいるわけですが、そこに記されているイエスの言葉、イエスの行いは、神から遣わされたイエスが命をかけて語っている言葉、命をかけて行っていることなのです。
イエスは命をかけている。私たちを神の前に起き上がらせ、新しく歩きださせるために……。
どうか、そのことを知っていただきたいのです。