2023年12月、クリスマス礼拝を行いました。
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「小さな教会の小さなクリスマス」ということで、クリスマス礼拝を、12月16日(土)、17日(日)、23日(土)、24日(日)の4日間、同じ内容で分散して開催しました。各集会にいらしてくださったみなさま、ご来会ありがとうございました。
裏話ですが、21日(木)からの雪で、駐車場の除雪(人力)に苦労しました。体はくたくた、腕はパンパンでしたが、ご来会の皆様とクリスマスを祝い、皆様の笑顔と楽しいおしゃべりにいやされました。
初めていらしてくださった方々との出会いがあり、久しぶりの再会がありました。心温まるクリスマスのこの雰囲気がいいんですよねえ。
教会は、「人が 神と出会う場所」であり、「人が 人と出会う場所」です。これからもそういう場所であり続けたいと思います。
クリスマス礼拝では、クリスマスの賛美歌を歌い、聖書から救い主イエス・キリストの誕生の物語をお話しし、神に感謝の祈りをささげました。
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聖書の話のタイトルは、
「インマヌエル ~神は我々と共におられる~」
マタイによる福音書 1章18~25節からお話をしました。
「インマヌエル ~神は我々と共におられる~」
クリスマスは、イエス・キリストの誕生をお祝いする日です。お祝いですから、そこには喜びがあふれています。
ところが、イエス・キリストがお生まれになったときの雰囲気は、私たちのイメージとはちょっと違っています。そこには、戸惑いがあり、困惑があり、不安があり、恐れがありました。
イエス・キリストの誕生は、ちょっとした事件、いや深刻な事件であったんですね。今日は、その辺のところをお話ししたいと思います。
イエス・キリストの誕生の次第 -解説-
ただいまお読みしたマタイによる福音書1章には、イエス・キリストの誕生の次第が書かれていました。
マリアとヨセフは婚約していましたが、二人がまだ一緒になる前に、マリアが聖霊によって身ごもっていることが明らかになりました。
神が働かれて身ごもったのだということです。
とはいえ、普通に考えたら、常識的に考えたら、これはマリアの不貞が疑われる状況です。人々は、おそらく、ヒソヒソとそううわさしあったのではないでしょうか。
夫ヨセフにとっては、衝撃的な出来事です。幸せな結婚生活を夢見て、その準備をしていたのに、突然目の前が真っ暗になってしまったのではないでしょうか。マリアはそれを聖霊によるものだと打ち明けたでしょうが、ヨセフとしては確かめるすべはありません。不貞の疑いは残ります。
このような場合、当時の社会では、神の戒めとそれを基にした社会のルールによって、当然離縁となり、マリアは宗教的にも社会的にも大きな制裁を受けることになります。
「ヨセフは正しい人であった」と書かれています。これはまず、神の前に正しい人であったということです。不貞行為は神の戒めに反することですから、ヨセフとしては、それを受け入れることはできません。うやむやにすることはできません。となると、ヨセフはマリアの件を公にして離縁するということになります。
しかし、同時にヨセフは、マリアのことを思いやる「人として正しい人」でもありました。彼はこう考えたのではないかと思うんですよね。「はたして、マリアはそのようなことをする人だろうか。いや、そのようなことをする人ではない。」しかし、現実には、マリアは妊娠しているわけです。彼女の言葉を信じたいが、客観的には……。
そこで、ヨセフはマリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心したのです。
「決心」…「心を決める」と書きます。この決心に至るまで、彼はどれほど思い悩んだことでしょう。決められることではないから悩むのです。彼は眠れない夜を幾晩も過ごしたのではないでしょうか。
しかし、彼は心を決めたのです。彼にとって、それは自分にできるぎりぎりの決断でした。そして、この件は、これで終わるはず、でした。
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ところが、ここから、話が思わぬ方向に展開していきます。
主の天使がヨセフの夢に現れて、主の御告げを伝えたのです。
眠りから覚めたヨセフは、決心を覆し、「新しい決心」をすることになります。
それは、マリアとマリアのお腹の中にいる子の人生を引き受けよう。人から何を言われても、どのように扱われても、この出来事を受け入れ、マリアとお腹の子を守って行こうという、新しい決心、新しい決断でした。彼自身思ってもみなかった決心です。
彼は、なぜ、このように「決心した」のでしょうか?
いや、なぜ、このように「決心できた」のでしょうか?
カギは、天使の御告げにあります。
ヨセフは、この出来事のただ中に、神が共におられることを聞かされ、そして、それを信じたのです。
生まれてくる子は、イザヤの預言に従って、インマヌエルと呼ばれるお方である。その意味は、「神は我々と共におられる」という意味である。マタイはそう注釈を加えます。
そうです。「神が共におられる。だから、恐れずこの出来事を受け入れなさい。」
マリアの妊娠というこの出来事は、ヨセフにとっては受け入れがたい出来事でしたが、彼は神が彼と共におられることを信じたんですね。
夢は夢です。客観的な証拠とはなりえません。しかし、彼はそれを信じた。そして、それを信じることによって、彼自身が変えられ、彼の人生が変えられていったのです。
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「キリスト教とは、どのような宗教なのですか?」
しばしば、そのようなご質問をいただきます。
いろいろと説明の仕方はあると思いますが、今日のこの箇所から、こういうことが言えると思います。
「キリスト教とは、『神が共におられることを信じる宗教』である。」
キリスト教とは、「神を信じる宗教」というだけでなく、いつもどのようなときにも、「神が私たちと共におられることを信じる宗教」です。
神が共におられることを信じるとき、私たち自身が、そして私たちの人生が不思議にも思わぬ形で変えられていきます。どのように変えられるのか?
私たちに起こる3つの変化を挙げてみます。
1.私たちは、困惑する出来事を、全く新しい、神の視点で受け入れることができるようになります
一つ目。神が共におられることを信じると、私たちはいろいろな出来事を新しい視点で受け止めることができるようになります。
この問題は、ヨセフにとって、常識的には否定的な出来事でしかありませんでした。
しかし、彼はこの問題を自分でも思いつかなかった、神の視点、全く新しい視点でとらえることができるようになりました。
それこそ、天から垂直的に働きかけてくる神の働きなんですね。
人生には、困惑する出来事、理不尽な出来事、不条理な出来事が起こります。しかし、どのような出来事に遭遇しても、神が共におられることを信じるときに、それまでとはちがう新しい受け止め方ができるようになるんですね。
神が共におられることを信じるとき、私たちは私たちに起こる出来事を新しい視点で受け入れることができるようになるのです。
2.私たちは、労苦しながらも、その人生を生き抜いて行くことができるようになります
二つ目。神が共におられることを信じると、私たちは労苦しながらも、その人生を生き抜いて行くことができるようになります。
実は、ヨセフはこの出来事を受け入れることによって、大きな苦しみを背負うことになります。イエスが王に命をねらわれることとなり、家族でエジプトへ逃げざるを得なくなるのです。その後も、ユダヤに戻ろうとしますが、命の危険があり、ナザレという田舎に、いわば隠れて住むようになります。そして、ヨセフは、貧しい大工として幼子イエスとマリアを守り養ったのです。
ただでさえ、生きることには労苦が伴うものですが、彼の場合、この出来事を受け入れたことによって、さらに労苦を背負うことになったのですね。
苦労の多い人生だったと思います。彼は何を思いながら、その人生を生きたのでしょうか。
実は、福音書の中にヨセフが言葉を発する場面はありません。ですから、私たちは彼の心のうちを知ることができません。
しかし、福音書の中で彼が言葉を発しないということは、こうも理解できると思うのです。彼は、与えられた人生を引き受けて、黙ってそれを生きて行った。黙ってそれを背負って生きた。
なぜ、それができたのでしょうか?
それは、神が人生に意味を与えてくださり、生きる力を与え、支えてくださったからです。
みなさん、人間は苦しみの中で、その意味を求める存在です。そして、人間は意味のない苦しみに耐えることができません。
しかし、そこに意味を見いだすことができると、人はその苦しみを、強いられてではなく、自ら背負って生きていくことができるようにもなる。人とは、そういう可能性を持つ不思議な存在なんですね。
神様は、私たちの人生に意味をお与えくださるお方です。
神が共におられることを信じるとき、私たちに生きる意味と生きる力が与えられるのです。
3.私たちは、自分自身の人生を受け入れることができるようになります
三つ目。神が共におられれることを信じるとき、私たちは自分自身の人生を受け入れることができるようになります。
ヨセフは、その後、いつの間にか聖書からその姿を消してしまいます。出て来なくなるということです。失踪したわけではありません。イエスが大人になったときには、もういなかった。つまり、イエスが大人になる前に、ヨセフは死んでしまったと考えられています。
一般的な意味で、彼は歴史に名を遺すことなく、社会の片隅で、貧しく、寡黙に生き、人知れず、死んでいきました。
人生を黙って生き、黙って死んでいった。
しかし、それでよい。
誰からも理解されなくても、誰に認められなくても、神と共に生きたその人生を、神ご自身が受け入れてくださる。
そういうことなのではないかなと思うんですよね。
どんなに小さな私たちであっても、神は私たちを忘れることなく、その御心に留めてくださる。
ヨセフの名が、そしてヨセフの生き方が「聖書の中に書き留められた」ということは、そういうことだと思うのです。
神が共におられることを信じるとき、私たちは自分自身の人生の評価を神に委ね、それを受け入れることができるようになるのです。
大きな喜びの知らせ
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。」
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそメシアである。」
「その名は、インマヌエルと呼ばれる。この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」
苦しみに出会うとき、人は神を求め、「神はどこにおられるのか」と問います。しかし、そのようなときにこそ、神は「わたしはあなたがたと共にいる」と語っておられるのです。
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聖書の話に興味をお持ちになられましたら、ぜひ教会をお訪ねください。
「主日礼拝」は、毎週日曜日 午前10:30~12:00に行われています。
一般の方々を歓迎する「オープン礼拝(主日礼拝体験会)」もあります。
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