2023年7月23日(日)、この日の主日礼拝はオープン礼拝(主日礼拝体験会)でした。
オープン礼拝では、「キリスト教は初めて」「キリスト教や聖書の話を聞いてみたい」という方々向けのわかりやすいお話をご用意しています。
今回は、予定を変更し、創世記12章1~9節から、「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」というタイトルでお話をしました。
アブラムは、主の言葉に従って旅立った
今日はアブラム(のちアブラハム)という人が、主の言葉(神の言葉)を聞いて旅に出たというお話です。みなさんは、「人生の冒険」というものをしたことがありますか?
アブラハムの旅立ち
アブラハムは、あるとき主の声を聞いて、家族を連れ、蓄えた財産をすべて携え、旅に出ました。75歳で、行先も知らずに、です。
目的地のある旅行ではありません。先がわからない旅です。私たちは、そうした旅のことを、しばしば「人生の冒険」と表現します。
人生の冒険……。冒険を辞書で引くと、「危険な状態になることを承知の上で、あえて行うこと。成功するかどうか成否が確かでないことを、あえてやってみること」(デジタル大辞泉)とありました。
「人生は、地図のない冒険だ!」
若い人が言うのならともかく、このときアブラハムは75歳。人生の冒険を始めるのには、少々、年をとり過ぎているようにも思います。
彼は、なぜ旅立つことにしたのでしょうか?何が、彼をそうさせたのでしょうか?この部分が、今日のお話のポイントになります。
主はアブラムに言われた。
「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて
(日本聖書協会「聖書 新共同訳」創世記12章1~4節
わたしが示す地に行きなさい。
わたしはあなたを大いなる国民にし/
あなたを祝福し、あなたの名を高める。
祝福の源となるように。
あなたを祝福する者をわたしは祝福し
あなたを呪う者をわたしは呪う。
地上の氏族はすべて
あなたによって祝福に入る。」
これが、アブラハムに聞こえてきた主の声です。
これは文学的な表現なのかもしれませんし、あるいは、彼は、それを実際にその「耳」で聞いたのかもしれません。聖書は、それについて説明的なことを記していません。私は思うのですが、たとえ神の声をその「耳」で聞いたとしても、その声が「心」に届かなかったら、「心」に響かなかったら、彼は旅立たなかったと思うんですよね。
耳に聞こえたかもしれないし、そうでないかもしれない。いずれにせよ、その声が彼の「心」に届いた、彼の「心」に響いた。そこが重要なのだと思うのです。
アブラハムの旅立ちは、彼の思いから出たものではなく、主の言葉を聞いて、つまり垂直的に働きかけて来る神の言葉によって促されたものでした。この点が、いわゆる「人生の冒険」とは異なっています。
「生まれ故郷を離れて」「父の家を離れて」「行き先も知らずに」「すべて携えて」というのは、まさにそのことを表しています。彼は、今まで人生の土台としていたものから離れ、ただ主の声に従って、自分に語りかけてくる主の言葉に従って、新しく人生を歩み始めたのです。人生の土台を、神の言葉に置いたのですね。
行く先も知らないあてのない旅のように見えますが、彼は神様をあてにして人生を歩み始めました。
ここから、アブラハムの人生物語が始まっていくのですが、いろいろな出来事が起こり、その中で神がいつも共にいてくださるということを彼は学んでいき、主に導かれる人生を歩み続けていくのです。そうして彼は地上の人生を終えていきます。
彼の子孫はイスラエル民族(のちのユダヤ人)となり、その中からイエス・キリストが誕生することになります。そして、このイエス・キリストの福音が世界に広がり、私たちにも及ぶようになったのです。「地上の氏族はすべて/あなた(アブラハム)によって祝福に入る」とあるとおりです。
私の場合 ~どうして信じるようになったのか、どうして牧師になったのか~
と、ここで、「では、私自身はどうして神を信じるようになったのか」「どうして牧師になったのか」についてお話をさせていただいたのですが、ここでは省きます。
簡単に言えば、キリスト教とは全く無縁の家に生まれ育った私でしたが、いろいろなきっかけがあって高校生の頃に教会に行くようになり、そして聖書の話を聞き、自分でも聖書を読むようになって、イエス・キリストを信じる決心をしました。
そして、大学卒業後、一度は公務員になりましたが、イエス・キリストの福音を宣べ伝える牧師になりたいという思いが強くなり、仕事をやめて牧師になることにしました。
そして、神学校を卒業後、縁もゆかりもない土地であるこの富山に来て、しかし、それを神の導きと信じて、今もこの地で福音を伝え続けています、ということになります。
何がアブラハムを、私をそうさせたのか……?
こうして、いろいろと説明をすることはできるのですが、しかし、それでもなお、自分でもわからない部分が残るのです。
「結局、どうして私は、イエス・キリストを信じたのだろう……」「どうして私は牧師になったのだろう……」。
考えても考えても、核心の部分は、自分でもわからない謎として残る。実は、アブラハムの旅立ちも、そうだったのではないかと思うのです。
何がアブラハムをそうさせたのか……?
何がわたしをそうさせたのか……?
結局、最後の最後の部分は、「主の言葉を聞いたから」「主に導かれたから」としか答えようがないんですよね。
心に、魂に語りかけてくる主の言葉にとらえられ、主を信じる人生に導かれた。
信仰の歩みとは、そういうものなんですね……
と、いうようなお話をしました。