2023年5月28日(日)、この日の主日礼拝はオープン礼拝(主日礼拝体験会)でした。
オープン礼拝では、「キリスト教は初めて」「キリスト教や聖書の話を聞いてみたい」という方々向けのわかりやすいお話をご用意しています。
今回は、ヨハネによる福音書4章43~54節から、「その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」というタイトルでお話をしました。
その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った
今回は、息子が死にかかっていた役人とイエスのお話です。今回、イエスはどのような奇跡を行ったのでしょうか。そして、この物語は、私たちに何を語ろうとしているのでしょうか。
役人の息子をいやす -あらすじ-
カファルナウムという町に王の役人が住んでいました。彼の息子が病気で高熱を出し、死にかかっていました。王の役人ですから、地位もありますし、経済力もあったでしょう。彼は、息子のためにあらゆることをしたはずです。しかし、息子は死に近づきつつありました。
そこへ、「イエスが再びガリラヤに来て、カナ村にいる」との話が伝わります。このカナで、イエスは前に、水をぶどう酒に変えるという奇跡を行っていました(前回のオープン礼拝でお話しした内容です)。
イエスの奇跡にすがるしかないと思ったのでしょう。彼は、死にかかっている息子を残し、自らイエスを迎えに行きます。カファルナウムとカナとは、30~40kmほど離れています。およそ一日の距離です。往復すると二日になります。その間に万が一のことが起こったら……。彼は、どのような気持ちで息子を残し、イエスのもとに向かったことでしょう。
「カファルナウムまで下って来て、息子をいやしてください」と頼んだ彼に、イエスは謎の言葉を発します。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない。」
役人は息子のために必死です。「主よ、子供が死なないうちに、おいでください。」
すると、イエスはこう言われました。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」
役人の目的は、息子のためにイエスを連れて帰ることでしたが、先ほどのイエスの言葉を聞いて、何かしら思うところがあったのでしょう、その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行きました。
彼は、どのような思いでもと来た道を戻って行ったのでしょうか。
……イエスは来てくださらない。しかし、イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と。そうだ、イエスの言葉を信じよう。でも、本当に息子は助かるのだろうか。いや、信じるのだ。信じよう。でも……
ところが、下って行く途中、僕(しもべ)たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げました。そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、きのうの午後一時に熱が下がったとのこと。それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻でした。彼は、イエスの言葉の力が息子をいやしたのだと悟ります。
これによって、彼もその家族もこぞってイエスを信じるようになりました。
1.キリスト教は、神の言葉の宗教です
~神の言葉には力があり、命がある~
キリスト教とは、どのような宗教なのか。いろいろと説明の仕方があると思いますが、「キリスト教は、神の言葉の宗教である」ということが言えると思います。どういうことでしょうか。
それは、「神は、この世界に向かって、私たちに向かって、言葉をもって語りかけるお方であり、その言葉には力がある」ということです。
聖書の最初の書「創世記」は、このように始まります。
「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」
(日本聖書協会「聖書 新共同訳」創世記1章1-3節)
神が「光あれ」と語ると、その言葉のとおりに、混沌と闇の中に、「光」が生じました。
今日の箇所では、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われると、その言葉のとおりに、息子の病気は良くなり、死にかけていた息子は生きる者となりました。
神の言葉、イエスの言葉には、力があり、人を生かす命があります。
2.イエスを信じるとは、イエスを信頼し、イエスの言葉を信じること
ところで、イエスが語った「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」という言葉。気になります。どういう意味なのでしょう?
しるしや不思議な業とは、奇跡のことです。イエスは、ご自分が神から遣わされた者であることの証拠として奇跡を行うのですが、人々はイエスが何者であるかには関心を払わず、ただただ奇跡だけを求めます。
また、イエスが神から遣わされた者であるということを聞いたとしても、人々は、「では、しるしを見せてくれ。証拠として奇跡を見せてくれ」と言うのですね。
「見たら信じる。」
私たちはよく言います。「あなたの言葉が正しいことを示す “証拠” を見せてください」というわけです。
それは一理あります。物事や人の言うことをよく確かめずに、何でもかんでも信じてはいけません。証拠を求めて、その人が言っていることが正しいかどうかよく確かめる。大事なことです。
しかし、その一方で、疑い続けたらどこまでも疑い続けることができます。「見たら信じる」とは言うものの、見たら見たで、「だまされているのではないか。何かウラがあるのではないか。何か隠しているのではないか」などと考え、「確かめたいから、もっと、もっと見せてくれ」となるのではないでしょうか。
つまり、どんなに証拠を積まれても、どんなに奇跡を見たとしても、私たちは、どこかで「信じるか、信じないか」の決断を迫られることになるんですね。それは、相手に対する自分の心の態度を自分自身で決めることです。
信じるとは、どういうことなのか?
「『見たら信じる』と、あなたがたは言う。しかし、わたしはすでに(カナの婚礼での奇跡を)見せている。本当の意味で『信じる』とは、わたしを信頼し、わたしの言葉を信じることなのではないのか。それを決めるのは、あなたがた自身なのではないか。」
イエスは、そう問うておられるのではないでしょうか。彼に対してはもちろん、ガリラヤの人たちにも、そして読者である私たちにも。
キリスト教は、神の言葉の宗教です。神の言葉、イエスの言葉には、力があり、命がある。そして、その言葉を語りかけることによって、イエスは、私たちに光を、希望を、生きる力を与えようとなさる。そして、そのときイエスは、私たちに「イエスを信頼し、イエスの言われる言葉を信じる」ことをお求めになるのです。
3.その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った
「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行きました。連れて帰るはずだったイエスをカナに残して、彼は「あなたの息子は生きる」というイエスの言葉を信じて帰って行きました。彼は、「信じる」ということをすでに学び始めています。
結果は、私たちがすでに読んだとおりです。息子は生きる者となり、彼らは家族そろってイエスを信じる者になりました。
ところで、みなさん、このお話は、「イエスの言葉を信じれば、すべての病気は治る」と教えているのではありません。前回の「カナの婚礼」での奇跡は、やがて来る「神の国の宴会」の先取り、前味として行われたものでした。このお話も、「やがて来る『神の国』においては、このような病気を含む苦しみから完全に解放され、神が与えてくださる新しい命に生きることができるようになる」ということを示すものであり、その先取り、前味として行われたものです。ですから、「イエスの言葉を信じれば、ただちに病気はいやされる」というわけではないのです。救いは「未来」にあります。
しかし、イエスを信じるときに、イエスの言葉を信じるときに、その人は神とのつながり、神との交わりを得て、新しい命、神の命、永遠の命に生きることができるようになる。たとえ苦しみの中にあっても、やがて来る「神の国」を信じて希望を持つことができる。それが私たちの現在の生を支える慰めとなり、生きる力となる。そういうことが語られているのです。その意味で、救いは「今ここに」あります。そして、そのような意味で、多くの人々が聖書の言葉から慰め、希望、生きる力をいただいて来ました。私もそうです。
『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
(日本聖書協会「聖書 新共同訳」マタイによる福音書4章4節)
キリスト教は、神の言葉の宗教です。神の言葉、イエスの言葉には、人を生かす力があり、命があります。神は、私たちに語りかけ、私たちに生きる力と命を与えたいと願っておられます。
信じることで開かれる世界があります。神とのつながり、神との交わりを得て、新しく生かされていく世界です。イエス・キリストは、私たちをそうした神とのつながりを持つ世界に招こうとされているのです。