2023年3月25日(土)夜、ママ会をしました。教会のこども会に来てくれていた子たちのお母さんたちが今もときどき集まって、あれこれおしゃべりする会です。牧師夫人が担当しています。牧師は毎回、短く聖書のお話をさせていただいています。

小さかったこどもたちも小学校を卒業し、この春からは中学生になります。ご卒業、ご入学おめでとうございます。中学入学を控えて、お子さんたちはもちろん、親御さんも大きな期待とちょっぴりの不安を抱いておられることでしょう。

1.いよいよ、中学生!

中学生になると、小学生のときとは環境が大きく変わります。主なものを3つ挙げると、勉強、生活、人間関係です。お子さんたちも慣れるまで大変です。

①勉強…難しくなります。定期テストがあります。高校受験があります。教科別担任制になります。

②生活…校則や守るべきルールが増えます。勉強や部活などが忙しくなり、自由にできる時間、行動が減ります。

③人間関係…友だちとの関係。クラス内での立ち位置。先輩後輩関係。教科別担任制のいろいろな先生たち。そして親との関係。

また、身体的成長に伴い、こころと身体の両面で不安定な時期になります。

いろいろな面で人と比較され、評価されるようになりますし、こころの不安定さもあって、こどもたち自身、自分で自分がわからなくなっていきます。

これはよくないことのように思われますが、実は、だれもがたどる道、そういう時期なんですね。

自分とはいったい何者なのか。自分で自分がわからなくなる中で、意識するしないにかかわらず、彼らは自分とは何者であるかを模索し始めます。悩むことを通して、彼らは自分自身を形作っていくのです。

こころの内を何でも話してくれればいいのですが、話してくれるわけではありません。これまでは何でも親に話してくれました。しかし、この時期になると、彼らは自分の外的世界とともに内的世界を持つようになります。

何を考えているのかわからない。親にとっても、何とも難しい時期になります。

2.親だって、大変!

私たち親は、こどもたちと何とか会話をしよう、何とか理解しようと努力し、こどもたちが何か悩んでいる困っている様子があれば、何とかしてあげよう、何でもできることをしてあげようと思います。

ところが、今日は機嫌が良さそうだと思って話しかけると、急に不機嫌になったり、何か悩んでいる様子だから「どうしたの?」と聞くと、「うるさい!」と拒まれる。

この時期は、こどもたちも大変ですが、親だって大変! ふりまわされてしまうんですよね。

しかし、はっきりと理解しておく必要があります。親だからといって、何でもできるわけではありませんし、何でもしていいわけでもありません。

これは「彼らの問題」であり、「課題」なのです。繰り返しますが、彼らは意識するしないにかかわらず、自分というものを形作ろうとしているんですね。「今はそういう時期なんだ」ということを理解することが必要です。

「何とかしてあげよう」と親が手や口を出し過ぎるのもよくないし、「勝手にしなさい」と突き放すのもよくない…。

どうしたらよいのでしょうか?

そういう彼らに「つき合ってあげる」。そういうことになるんじゃないかなと私は思っています。そういう時期だと思って、親も覚悟して、彼らに向き合う。私たちが何とかしようとするのではなくて、何とかしようともがいている彼らにつき合ってあげる。寄り添う、見守るなど別の言い方もできるでしょうが、私はこの「つき合ってあげる」という言い方が気に入っています。

こうしたことを思いついたのは、こどもたちが生まれて夜泣きが激しかったころのことです。正直、夜泣きが続くと、親だって大変です。そこで、何とか夜泣きしないように、早く泣き止むように、あの手この手を試します。でも、どうにも治まらない。親もふりまわされて、まいってしまいます。

あるとき、ふと思ったんですよね。「夜泣きで困るのは、親の都合なんだよなあ。そして、こどもだって、自分が何で泣いているのかわからずに泣いているんだよなあ。」

それで、何とかしようとするのをやめて、覚悟して、とことんつき合ってやろうと思ったのです。「今はそういう(夜泣きが激しい)時期なんだ。一生続くわけじゃない。とことん、つき合うよ。」

もちろん、泣き声がご近所迷惑にならないか気になるし、腕は疲れるし、寝不足にはなるし、大変は大変です。でも、何て言うんでしょうか、とことんつき合おうと覚悟することで、ただふりまわされるのではなく、ふりまわされてあげる、つき合ってあげるという気持ちの余裕みたいなものが生まれたんですよね。そして、そうした気持ちの余裕みたいなものこそ、あの頃、一番大事なものだったんじゃないかなあと思うのです。

思春期、青年期のこどもたちと向き合うのも、それと似たようなところがあるんじゃないでしょうか。

こどもたち自身、自分でもわからない何かにふりまわされているんですよね。そうした何かにふりまわされている彼らにふりまわされてあげる。つき合うというのは、葛藤している彼らの姿をそのままありのまま受け止めるということなんですね。

大事なのは「解決」してあげることなのではなくて、「一緒に悩むこと」「おろおろすること」のような気がします。もちろん解決できたらよいのですが、世の中には解決できない問題も多々あります。でも、そのとき、一緒に悩んでくれる人、一緒に苦しんでくれる人、イライラや怒りにつき合ってくれる人、何もできないけれど心配しておろおろしてくれる人、そういう人がいてくれることそれ自体が、実は解決であり、答えなのではないかと思うことがあるのです。

3.共にいてくださる神

ところで、「ふりまわされる」と「ふりまわされてあげる」とでは、よく似ていますが違いがあることにお気づきでしょうか。

ふりまわされるというのは、こどもだけでなく、親も自分自身を見失ってしまうことです。

ふりまわされてあげるというのは、こどもたちにふりまわされつつ、しかし、親である私たち自身はどこかで自分自身を保っているということです。

「わたしはあなたと共にいる。」

聖書の中に繰り返し繰り返し出て来る、神の言葉です。「いつも、どのようなときも、わたしはあなたと共にいる。」

いつもゆるがない神が、いつも共にいてくださる。そのことを信じることで、心の中に「大丈夫」という気持ちが生まれます。私自身はふりまわされても、そのような私を神様がその御手で支えてくださる。だから、ふりまわされても、自分自身を失わない。

新しい環境に踏み出すお子さんたちの上に、そして彼らを見守る親御さんたちの上に、神の恵みが豊かにあるよう、お祈りしています。